提案4 of 武松事業デザイン工房




港都は栄え続けられるのか

かつては繁栄していたが、今は見る影もなく寂れてしまっている。そうした都市は、国内にもたくさん存在します。

ニシン漁で栄えたという北海道の江差町。今は寒村というにふさわしい風情の場所ですが、そのニシン漁で栄えた頃は、そのにぎわいは江戸に匹敵すると言われたそうです。そして江差にニシンがこなくなってから栄えた小樽も、ニシンに拠る部分では同様の軌跡を描いてきました。

江戸時代から明治にかけて、主要な海上輸送航路だった北前船の寄港地として栄え、当時は中核都市以上のポテンシャルがあったとされるそれぞれの街…上ノ国、江差、深浦、松前、十三湊、青森、佐渡(小木)、能登、但馬、石見、長門、備後、脇野沢、鰺ヶ沢、佐井、鞆、大間、三厩、大畑、蟹田、野辺地、田名部、川内、熊石、七尾などの大半については、今日、繁栄の痕跡を見つけることさえ困難な状況にあります。

(横浜と同時に開港地となった函館、神戸、明治になっても商都として栄え続けた大阪を除けば、人口の流出も激しく、過疎化が心配されるばかりの状態に陥っています。恐縮ながら、かつて都市だったと思えるような面影はなく、むしろ、以前から寒村だったのではないかと思えるような風情のところが大半です。)

いつまでも、横浜が、横浜でいられるかどうかはわからないのです。人々の努力がなければ、街は簡単に衰退していく…そのことを歴史が証明しています。

Y150

プロフェッショナルの不在

横浜市役所が追求しようとしているのは、元請けになった東京の大手の広告代理店の責任なのかもしれませんが、その中身、つまりコンテンツづくりについては(恐らく、その指導もあったのでしょう)、以前から、行政主催のイベントなどを中心に、この横浜で活躍してきた、その道のプロフェッショナルたちも、たくさん参加していました。
市民活動にスポットを充てたヒルサイド・エリアでは、未来の横浜を創造していくために、それなりに成果もあったという評価もありますが、プロフェッショナルがつくったコンテンツをつくり、それで勝負をかけたはずのベイサイド・エリアにこそ、酷評が集中しています。

そもそも、80年代以降、野毛の大道芸やジャズ・プロムナード、あるいは横浜映画祭といった内外から評価が高いイベントこそ、市民の手作り、つまりアマチュアの手に拠るものだという傾向が、ずっと続いてきています。
故に、例えばテントを200張り用意せよといわれれば、それはプロの仕事かもしれないが、面白いコンテンツをプロフェッショナルたちに要求するのは難しい、一部にはそういう評価も定着しつつあります。

恐らく、Y150の失敗によって露呈したのは、そうした「コンテンツづくりのプロフェッショナル」の不在ということです。

多くの人々を魅了するコンテンツを発信することができるプロフェッショナルがいない…
確かに、その穴をアマチュアが埋めれば済むことだという見方もあるのかもしれませんが、やはり、それには限界があることも事実です。
特に観光を重要な産業基軸として、この街を活性化していかなくてはならない今後のことを考えれば、誰かが、観光都市としてのグランド・デザインを描かなければならないわけですが、それはアマチュアには不可能です。ひとつひとつの点をデザインすることができても、やはり全体を見渡すのは専業者に限られます。それだけ難しいことでもあるし、他に生業を持ちつつできることでもないからです。

過去のものになりつつある

アーバン・デザインも過去のものになりつつある

90年代に入る頃から、役所の中には、地域の顔を立てつつも、コンテンツについては、やはり東京の大手の広告代理店に依頼した方がいいだろうという見方がありました。自治体としては地元に配慮しなければならないが、でも、彼らが産み出すコンテンツには誰も期待していない…
でも、Y150では、その「東京の大手の広告代理店」にも裏切られたかっこうになりました。
横浜市役所は「次」をどう打ち出して来るのでしょう。
今のところは、それを期待するのも難しいように思います。

田村明氏が現役でご活躍され、アーバン・デザインなる言葉を世間一般に知らしめた時代は、すでに30年以上前のことになりますが、それを順当に継承し、都市としての情報発信性を高めることには成功できてきたとしても、その次の「コンテンツ」を産み出すことができなかったのが、その後の横浜市役所の実情でもあります。

ヨコハマ・トリエンナーレの開催も、横浜クリエイティブ構想も、確かに田村氏の系譜を受け継ぐものではありますが、イセザキ・モールが完成したときのように、市井を巻き込み街を活性化していく勢いに欠けるものである感は否めません。

そしてY150開港博は、自前ではできなかった。委託した広告代理店に返金を要求しているのが何よりの証拠。つまりは任せっきりにしていたということです。

故に、80年代以降を主導してきた横浜市役所に、この「次」を期待するのは難しいことのように思えてなりません。

結局、小さい点の集まりである

街は、小さな点の集まり
そして、その小さな点のひとつひとつが面白くなければ
リピーターは帰ってこない

一方、地域企業や、その共同体が開港博Y150に関連して行なった周辺イベントはどうでしょう。
それらのイベントの中に、消費者の関心を呼んだものはあったのでしょうか。
少なくとも「あった」とはいえないように思います。現に、閉幕後数ヶ月が経過しただけなのに、何が行なわれていたか、定かな記憶もないくらい

もちろん、イベントだけではありません。日頃の街にも、よどんだ停滞感が流れています。

よく知られているように、秋葉原は上手に転換を繰り返してきた街です。
戦後、進駐軍流れのラジオ・パーツを売る店が集まり、それが高度成長期に合わせて家電の街になり、コンピュータが普及するとパソコンの街になり、やがて、そのパソコンなどを媒介にサブ・カルチャーが隆盛になれば、そのファン層を当込んだコンテンツ集積型の街になっていった…
秋葉原は、いつも「一昔前」を上手に脱却していくことで、今日までの隆盛を維持してきた街であるわけです。

横浜もそれなりに新しくはなっています。しかし、新しくなるのは建物ばかりであるように思います。確かに、秋葉原にも2000年を越える頃から再開発の手が入りましたが、それまでは、特段、新しい建築物が建つわけでもなく、もっぱらコンテンツの転換によって、隆盛を確保してきました。

横浜とは対照的な街のあり方です。

行政任せ、あるいは街のリーダー任せの再開発は、街の景観を一変させる力を持ちますが、持続的な情報を発信していくのは、やはり小さな商店主、ひとりひとりの頑張りに拠るものだといえます。

都心は動く

これからの横浜都心は、横浜駅東西口であるということ

21世紀に入ってすでに10年が経ちます。その間、以前の私たちが想像もしなかった現実が目の前にあります。
私たちは、もう公衆電話を必要としないし、本はアマゾンで買います。
そうした中で、恒例だからとか、あるいは「例年通りに」を繰り返しているとどうなるのか、火を見るよりも明らかです。
以前は、食事を提供する店舗、物を商う店舗、そこのスタッフの方のほうが、消費者よりも商品知識を持っている。だから優位に立てるというのが常識でした。でも、今は、消費者の方が商品知識が豊富であるということも珍しくはありません。
そういう状況があれば、おのずと店舗の経営も変わってくるはずですが、そうしたことを意識して店舗の改革を行なっているという話しを、都心部で耳にしたことはほとんどありません。

そして今、旧都心にとって脅威だった「みなとみらい地区」にも停滞感が漂っています。
あの場所から新しい情報が発信されるのだろうという予感はなくなりましたし、何かが発信されても、それが市井の人々の関心を呼ぶことはなくなったように思います。

そうした中で、横浜駅周辺の活発さが目立つようになってきました。今さらキャッツ・シアターが目新しいものだとは思いませんが、何かが起こるとしたら、あのあたりだろうという「動き」を感じることはできます。
そして、これから横浜駅周辺の大改造が始まる…先行きは不透明ですが、少なくとも横浜市役所や大きな起業の感心はあのあたりにシフトしていき、また何かが起こっていくのでしょう。

そうなれば関内地区を含む旧都心は、さらに周縁へと追いやられていくことになります。本牧は、さらにその奥です。
しかも、80年代末のバブルの頃のように、消費者の懐にお金が余っているわけではありません。

その事実をどうとらえ、どのように判断し、どのように行動するのか…
いつまでも、横浜の都心はここから動かない。そう思っているとしたら、それだけは再考した方がよいということができます。